先月特集した「拘りの「かき氷」から始まる靴屋!?」編に続き、待ちに待った続編。
かき氷屋から始まり、老舗の靴屋がなぜイタリア靴を提案しだしたのか。
なぜ、国内外の高級靴をこの小さな田舎街で提案し続けるのか。
その真意を皆様にお伝えできればとインタビュー形式で記事にしました。
それでは、お楽しみ下さい・・・
「菅原靴店4代目 バイヤー兼代表取締役 菅原誠編」
■本物へのこだわりは街の文化のため、子供の夢のため
イタリアで直接仕入れた上質のイタリア靴を始め、自らセレクトしたこだわりのファッション、バッグや革物小物など、お洒落に敏感な人達から支持を集める盛岡大通「菅原靴店」。
三代目(靴屋として)となる社長の菅原誠は、本業の他にも日本人シューズバイヤーのための通訳や、イタリアの工場と日本の三越・伊勢丹などを繋ぐシューズコンサルタントとして、また東京で展示会を開き全国のショップに革物を卸したりと、イタリアと日本、人と人を繋ぐお仕事で活躍しております。
又、2011年に起きた三陸沖地震では、震災後に「アドボートJAPAN」を立ち上げ、被災地支援にも力を注いでいます。そんな、菅原誠に商売に掛ける思いや支援プロジェクトのお話を伺いました。
■こだわりのお店づくり
・・・三代目を継ぐきっかけは?
学生を終えて、元々ファッション業界に入ることはわかっていたので、その前に別の業界で学びたいと父に相談して、ホテルに就職しました。学生時代は野球ばかりでしたから、マナーの勉強や、とにかくたくさんの人に出会えるホテルは魅力でした。
その後イタリア・ミラノに語学留学をし、商業経済の専門学校で学びプラダの本社に就職が決まっていた矢先に「会社が厳しい状態だから盛岡に帰って来てくれ」と父からの電話が・・・・、初めて父の弱気な姿(言葉)に、これは盛岡に帰らなくては!と思い帰国しました。
当時の盛岡は郊外に大型店が進出し、その後大通り商店街も小売店がどんどん飲食店に変わってきたので、ターゲットを絞っていかないと生き残っていけない。何処にあってもお客様が来てくれる、負けないお店にしていくためにセレクションを変えて行きました。
↑写真は2005年盛岡市大通商店街の初売り1月1日の様子。(この写真の位置から徒歩1分以内に当店があります)
↑大通商店街にアーケードが初めて出来た日(昭和60年)。(この賑わい方はすごいですね!)
■仕入れはご自身で?
98年から毎年、年に2〜3回はイタリアに行っていますね。でも、僕らの商売はギャンブルみたいなもので、一年前に売れるかどうか分からないものを仕入れるじゃないですか・・・・・本音は怖いですよね(笑)。
東京ドーム約5個分の広い展示会場に3000社以上の靴・バック・アクセサリー工場が出店しています。その中から自分の店に並べる商品を選び、色や木型(ラスト)のオーダー・別注などを契約するのは本当に大変です。でも、長くイタリアに通っていると何千足もある靴達の中から僕は呼ばれるようになりました。「私を買ってくださーーい。」(笑)
その僕を呼んでくれた靴達は必ずお店で沢山売れていきます。イタリアの展示会で毎日靴を見ていると、次はこの色が来るってわかるようになります。イタリア靴の良さはとにかく履きやすいことです。
因みに男性靴に限って言えば、イタリア靴は履きやすくて長持ちはしないけどカッコイイ。とにかくモテたい人の靴です(笑)。イギリス靴は、最初は硬いけど長く履ける、変わらないデザインを楽しむこだわりの一足。アメリカ靴はとにかく歩きやすさ重視。
東北の中でも岩手は文化レベルが高いと言われています。人口の割にはこだわりを持った人が多くお陰さまで営業が成り立っております。また、今はネット販売が主流で、全国のお客様が相手ですからマニアックな靴の販売もやりやすく、私共の助けになっています。
↑イタリアで行われている展示会場、こちらは一部ですが端から端まで各ブランドのブースが並んでおります。
↑イタリア人と直接話し、その靴の魅力を聞き、盛岡で販売しております。
※こんな素敵な靴達が「私を買ってくださーーい。」(笑)の状態ですね。
■三陸の漁師を支援
被災地支援「アドボートJAPNA」のしくみは?
震災直後、靴屋に出来る事をと、靴10000足を被災地に持って行きました。その後も支援金を盛岡市や釜石市に届けましたが、なんか納得がいかなく・・・自分で支援プロジェクトを結成しました。支援金の流れをはっきりさせたかったのと、届ける先を団体じゃなくて直接個人にするためです。
仕組みはF1カーのようなものです。スポンサーからの支援金でその企業のロゴをグラフィックでデザインし、それを地元の看板屋さんに発注して、船にラッピングしてもらう。最初は漁師さんに「なんで俺の船に企業の名前なんか」と抵抗されました・・・、「船をカッコよくすれば、子供たちも漁師になりたいと思うかもしれない!」と説得しました。漁師が元気にならなくちゃ街の復興はありませんからね。
全国、世界からのご支援によって6年で186隻の支援船を岩手県の三陸地方に浮かべることができました。残念ながら継続困難の為、このプロジェクトは本年10月で終わる予定でいます。未だ支援を待っている漁師さんは数多くいます。皆様のご支援お待ちしております。
↑三陸の海に写真の様な船が186隻も浮かんでおります。(写真はPELLICOなどの日本代理店AMAN様の企業船)
■「本物」で子供たちに夢を
今、衣食住の価値が特に地方では弱まっていると思います。車なら軽自動車、家は○○ホーム800万円、食事はシュッピングモールのフードコートで、服は○○○ロに行けば取り敢えずなんとかなる。お金を使わない、物を欲しがらない。贅沢なお店がなくなってきていますよね。お金を使う場所は大都会!東京・仙台・大阪・・・・それでは岩手の町が育ちません。
だからこそ、弊社は本当に良い物を置いていきたいです。田舎でもいい環境を提供していけば、都会に出ても負けない、怯まない人間(価値観)を備えることができます。地元に住む人たちの感性を高めるお手伝いをしたい。岩手の大人達がこだわりを持つことで家族全員の価値観が高まる、それが子供たちにも夢を与えることに繋がると思っています。物を大事にすること、こだわりを持った大人達が自分の子供達に見せていけばヨーロッパの歴史にあったような価値観が岩手でも身についていきます。
現在の目標は、都会への出店ですね。来年も盛岡でのパーティー(ダンディズムナイト)は企画していきます。「素敵な洋服や靴を買っても着ていく所がない」と仰るお客様のためのステージ。思いっきりお洒落な大人のパーティーを継続していきたいと思います。
↑2015年のダンディズムナイトの様子(恒例になっているジローラモさんも出演)
↑2016年のダンディズムナイトの様子(総勢300~400名でパーティーを開催)
今回は、昔の大通商店街の写真やイタリアの写真などを一緒に並べ「菅原靴店の歴史 Ver.2」を完成させましたが
その先
かき氷から始まり、靴屋へ、そして国内外の高級靴が並ぶまでに発展したその先・・・
岩手から全国へ
今後の菅原靴店を乞うご期待頂ければと。
↑弊社 代表取締役 バイヤー兼 社長 菅原 誠
第二部「完」
前回の「拘りの「かき氷」から始まる靴屋!?」編はコチラからも。